映画「DEAR WENDY」に見る幸福と悲劇

映画「DEAR WENDY」における幸福と悲劇について、実存的な側面と社会的な側面から捉えてみたい。

■実存の満足
社会から疎外された負け犬(=弱者)ディック。“平和主義”という意味づけに寄りかかることで自己を保つ。やつらは悪い、ゆえにおれは善いという図式。 あるとき偶然手に入れた“力”により彼は大きな転機を迎える。社会との接触が少ないがゆえに社会の複雑性を知らぬ彼は自らの理性をのみ信頼し、力を理性で制御しようと試みる。そしてその力と理性により、彼は負け犬共同体の中での信頼を勝ち取る。
しかし、タフで屈強な強者な他者セバスチャンに出会うことで彼は自らの危うい実存的支えを失いかける。セバスチャンは社会から疎外されたが、自己を信頼するがゆえに社会との断絶を気にしない強者。一方のディックは力と理性に成り立つプライドに依存する弱者。セバスチャンは意味にすがる弱者であるディック達に狂気を感じとる。ディックは自らの実存的な弱さに気づき、孤立に怯え嫉妬する。 ディックはプライドを回復し実存的な満足を得るため、社会の中での存在感を示し意味づけを獲得しようと試みる。自分自身によって満たされる強者ではなく、社会から認められることで満足を得る弱者。
世界は想像以上に複雑である。彼の意図を越えて彼の行為は彼らの窮地を招く。彼の行動は社会を混乱させ、彼らと社会との回復不可能な断絶を生じさせる。しかし、理解不可能な状況はディックの実存をも変容させた。自分たちの起こした行動により生じた思いもよらぬ結果に彼は世界の複雑さに気づく。意味づけにすがることを断念し、自己の欲するものにしたがって行動を起こす。松葉杖に頼らず自分の足で立つことが可能となった。しかしそれにより事態は悲劇の終末に向かう。強者となった彼は、自分の欲したとおりの最期を迎える。

■社会における不安と暴力の連鎖
「炭鉱で働かなければ男でない」という単一で多様性なき価値観が支配する社会。炭鉱に入ることを拒むものは社会から疎外される。単一な価値観の中での強弱という物差しによって社会は単純化され、お互いのコミュニケーションは不足する。コミュニケーションの不足はお互いの不信をもたらし、町の社会的なコミュニケーションの場である広場で働く人々はお互いを不信の目で見合い、他人が強盗ではないかと怯えて暮らす。
人々は不安から銃を手にし、銃により自分の身を守ることを志向する。銃により解決できぬものには、警察という公権力を呼び出し問題に対処する。しかし、相互の銃の保持という暴力による対抗は自らの身の危険をさらに増し、お互いの不信感を増大させていくという悪循環に陥る。
ある者が異なる価値観を提起する。 炭鉱に入らずとも自尊心を満たすことができ、力を示すことをせず精神的な安定を得る“銃による平和主義”という価値観。銃による平和主義は小さなコミュニティを作り出し、弱者救済を志向する。しかし、それは根本に矛盾を孕む。偶然に手に入れてしまった銃、簡単に入手可能な銃。機能的に暴力を内在する銃を、偶然的に手に入れた個人が制御するのは難しい。
ちょっとした偶発的な出来事さえも、不安と銃を媒介とすることで、大きな混沌を生み出す。不慮の事故をきっかけにして、秩序は大きく破壊される。秩序を回復するために暴力が使用される。暴力に対する暴力の対抗。広場に住む隣人たちは、さらなる不安に怯えることとなる。不安と暴力の悪循環。連鎖は果てることなく続いていく。

■幸福と悲劇
銃により、ある意味で個人の実存の満足を得ることは可能かもしれない。しかし、銃により社会秩序の混乱し相互不信と暴力の悪循環が生じる。実存的な幸福感の達成と、相互信頼可能な安定的社会の達成。多様性の容認とコミュニケーションによる安心の獲得により、これらを実現することは可能なのだろうか。少なくとも不安と暴力を基盤とした社会にはこれらが達成されることはないのではないだろうか。


at 13:56, 市来 広一郎, 旅・音楽・映画・禅・サッカー

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映画「パッチギ」に見る時代の匂い

パッチギ。その言葉どおり,1968年,京都,朝鮮という景色を「乗り越え」,
いまここにいる者の心を揺さぶる。「イムジン河」の叙述性と共に匂う時代の景色。


今とは異なるこの風景に囚われる。この匂いとは,いったい何なのか?


なぜ,あの時代に生きていなかったこの我々もが,あの時代の空気,あの時代の匂いにこうも惹きつけられるのか。



at 14:18, 市来 広一郎, 旅・音楽・映画・禅・サッカー

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